自分だからこそ大好き

ある養護学校の先生と生徒の交流の物語を紹介します。
「違うってことはもっと仲良くなれること」(山元加津子著、樹心社)より。


雪絵ちゃんは、高い熱が出ると目が見えなくなったり、手足が動かせなくなったりするMSという病気を持っています。リハビリの間に、だんだんと元にもどってくるのですが、発熱前とまったく同じ状態にもどることはむつかしく、今は目が見えにくくなっていたり、杖や車椅子を使ったりしています。
雪絵ちゃんが発熱するとわたしはおろおろして、どうしていいかわからなくなりました。でも雪絵ちゃんは、一度は落ち込むようなことがあったとしても、いつも自分の力で立ち上がるのです。雪絵ちゃんは、いつもこう言います。

「MSである自分を無駄にしたくない、MSである自分を後悔したくない、MSである自分を・・・好きと言いたい」

           


そしてこうも言いました。
「MSでも自分を愛していきたい。大好きでいたい。楽しいこといっぱいあるし、いっぱい笑えるし、MSになったことをすこしは感謝したいくらいの気持ちなの。だって、MSだったから先生に会えたんだよ。ほかのまわりの人にも会えた。もしMSでなかったら、別の誰かに会えたかも知れない。でも私は、今まわりにいる人に会いたかったの。先生に会いたかった。ほかの人じゃ嫌なの。MSだからこそ気づけた素敵なこともたくさんあるの。とにかく私は、どんな身体になっても、歩けず、見えず、手を使えず、話せなくなっても、きっとMSの雪絵を愛していくと思います」
自分だからこそ大好きと思えるのって、なんて素敵なことでしょう。障害を持つ人、病気の人は楽しいことがないんじゃないかと思われる人が多いかもしれないけど、けっしてそうじゃないんだよ、と雪絵ちゃんは輝きながら教えてくれるのです。雪絵ちゃんはいつも「私の勇気」です。生きることって素敵です。

ヘテロでうまくやっている

「遺伝子とゲノム」(松原謙一著、岩波新書)より。

  • 生存に不利な変異遺伝子はヒトの集団(=ゲノムの集団)から自然に排除されるはずですが、それらの変異遺伝子が存在する頻度が意外と高い場合が散見されます。ここで、(以前に名前の出た)へモグロビン病をもう一度取り上げましょう。からだのすみずみまで酸素を運ぶのがヘモグロビンの役割ですから、その遺伝子に変異がおきてうまく働かなくなると生きていくことができません。けれども、人類の集団中には、ヘモグロビンに不具合をもたらす変異遺伝子が意外といえるほどたくさんあります。ヘモグロビン病の大部分は気温の高い地域に暮らしてきた先祖から変異遺伝子を受け継いでいます。
  • 私たちのゲノムは、父と母から1セットずつ受け継いだものです。私たちの細胞核にはゲノム二つ分づつの遺伝子DNAセットがはいっているのです。これを二倍体と呼んでいます。細胞が分裂増殖するときは、このDNAが倍化して、それぞれの娘細胞に分配され、二倍体の細胞が二個できます。ところが、精子卵子ができるときにかぎり、二倍体の細胞からまだよくわかっていないしくみで一倍体の細胞が生み出されてきます。とにかく、わたしたちのからだは二倍体であるおかげで、一方の親から変異をもっていてよく働かない遺伝子をもらっても、もう一方の親から変異していない遺伝子をもらっていれば(これをヘテロの状態とよびます)、後者の遺伝子が”優性に”働き、前者の遺伝子は劣性(劣っているのではなく、働きを示さないという意味)となって、からだ全体としては滞りなく生活できるのです。これに対し、もし両親おのおのから変異のある遺伝子をもらうと(これをホモの状態と呼びます)、劣性と劣性、つまりちゃんと働く遺伝子がないので、目に付く症状があらわれます。ヘテロなら、変異遺伝子を持っていてもうまくやっていける、というのは自然の驚くべき発明です。

          

  • ヘモグロビン遺伝子の変異の話にもどりますが、両親がヘテロ同士の場合、おのおのから変異のある遺伝子を受け取った子供の生まれる確率は、2分の一×2分の一=4分の一、つまり四人に一人の子供はヘテロでなく劣性のホモとなり、そうした子供は学齢前後に死んでしまう宿命を担っています。反対に四人に一人の子供は両方とも変異の無い遺伝子を受け継いだホモ状態で、完全に「健常な子」になります。
  • それでは気温の高い地域に人々の中に変異を起こしたヘモグロビン遺伝子がひろく分布している現実をどう理解したらよいでしょう。ヘテロ状態でしか生きられないような遺伝子の変異は、代を重ねるうちに集団から排除されてしまうはずだ、ということは直感でもわかることです。
  • 実は「ヘテロでうまくやっている」のです。(ヘモグロビン遺伝子の変異が)ヘテロのヒトは生存できるだけでなく、マラリアに強いのです。ヘモグロビン遺伝子の変異のなかでもとくに有名な鎌状赤血球貧血と呼ばれる病気の分布はマラリアの広まっている地域と一致しています。(この変異遺伝子をもっていると赤血球の中で増殖するマラリア原虫が増える前に赤血球が壊れることで、マラリアの発症が抑えられる)
  • マラリアは、現在でも地球上で毎年200万人もの死者を出していますが、このマラリアという淘汰圧が、この病気の広まっている地域に生活した先祖のなかに起きたヘモグロビン遺伝子の変異を温存し、代々伝えてきたのでと考えられています。
  • 一人のヒトを選んで、そのゲノムを調べると、単因子病の致死的な変異が20くらいは見つかるだろうといわれています。「健康」は「ヘテロ」のおかげ。つまり、父母から1セットずつのゲノムを受け継ぐことによって保証されており、われわれはそれを知らないだけなのです。「ヘテロでうまくやっている」のです。
  • もし地球上にあまねくマラリアがいきわたっていたらどうなったでしょうか。変異を持ったヘモグロビン遺伝子がひろく人類にいきわたり、人類の大部分はヘテロでうまくやっているという状況になっていたのではないでしょうか。しかし、もしそうなっていると、生まれた子供四人に一人を学齢前後に失ってしまう、という宿命を担った人類になっていた、ということになります。

                「遺伝子とゲノム」(松原謙一著、岩波新書)より。


<参考>
「4分の一の奇跡」という映画を紹介します。
養護学校で教諭をしている一人の女性と子供たちの交流をつづり、命の尊さを説く心温まるドキュメンタリです。障がい者がもつ4分の一の遺伝子の謎を解き明かし、「すべてが必要だから存在する」ことに気づかされます。
自主上映を呼びかけています。HPは以下です。
   ドキュメンタリー映画「1/4の奇跡~本当のことだから~」公式HP|入江富美子監督、山元加津子先生

いのちのリズムの起源


「安らぎの生命科学」(柳澤桂子著、早川書房)より。

  • 地球上のほとんどの生物は、日周期というリズムの影響を受けて生命活動を営んでいる。太陽ばかりでなく、月の満ち欠けや潮の満ち引きというリズムと密接な関係をたもちながら生きている生物もある。一方、生物は天体の動きとは関係のない、生命現象に内在するリズムをもっている。
  • たとえば、私たちの心臓は、胎児期から死にいたるまで、一定のリズムで打ちつづける。また、私たち一人ひとりの生命は、卵と精子が受精して瞬間から時を刻みはじめる。この時、卵に起こる最初の変化に、ナトリウムやカルシウムなどのイオンが関与していることが知られている。ヒトの腸に寄生するカイチュウと近縁の虫(線虫の一種)をもちいた実験から、虫が這うためには、筋肉を収縮させる刺激と、収縮を抑制する刺激が一定のリズムでくりかえされなければならないことがわかっている。

   
           

  • 生命現象の中には、このようなリズム現象がいたるところにみられるが、それはなぜであろうか。たとえば、線虫の実験からもわかるように、筋肉の収縮と弛緩という正反対の反応が交互に起こらなければ、虫はのびたきりになるか、縮んだままで動くことができないであろう。心臓の筋肉も収縮と弛緩を繰りかえすから、血液を送り出すというポンプの働きをすることができるのである。分裂する細胞は、分裂をうながす指令と、分裂を阻止する指令を受けて、組織ごとに一定のリズムで分裂している。がんは分裂を阻止する指令がうまく働かなくなった病気である。
  • このように、生物の体の中では、多くの反応が促進と抑制の二方向のコントロールを受けている。私たちが環境に適応して、一定の恒常性をたもって生存できるためには、生体内の反応が押しつ戻りつのくりかえしであることが必須なのである。そのような機構を遺伝情報の中に記された生物だけが環境の変化に順応して生きていくことができるのである。
  • このように考えてくると、生命現象にリズムがあるということと、生きているということは、表裏一体の関係にあることがわかる。リズムが生存を可能にしているのである。

                   「安らぎの生命科学」(柳澤桂子著、早川書房)より。



      

死もまた生の一部

「安らぎの生命科学」(柳澤桂子著、早川書房)より。

  • 五本指の手袋を編むには、一本づつの指を指のつけ根から編んでゆくが、神はこのような方法は使わない。ラケット型の肉のかたまりをつくっておいて、四本の切り込みを入れて五本の指をつくるのである。ラケットを五本の指にわけるために、指の間にあたる部分の細胞を殺して除去する。このような細胞死は、アポトーシスと呼ばれている。一方、酸素の欠乏などによって起こる病的な細胞死は、ネクローシスと呼んで区別している。アポトーシスは、指の切り込みを入れるような、発生の途上で不要の部分を取り除く場合に起こる。
  • 生命現象のなかにこのような例はたくさんある。乳腺のもとになる乳腺原基は、胎児では男にも女にもおなじようにできるが、男の子では、アンドロゲンという男性ホルモンが分泌されて、乳腺原基の細胞にアポトーシスを起こさせて、乳腺原基を取り除いてしまう。アポトーシスは、受精卵からきまった形の生き物をつくるときばかりでなく、がん細胞などの体内の異物を除去するときにも起こる。また、ヒトの成人の脳では、神経細胞が複雑な回路を作っているが、その形成過程でたくさんの神経細胞アポトーシスを起こす。神経細胞を過剰につくっておいて、うまく回路を形成したものを残し、不要なものは殺してしまうという作戦をとっている。

     

  • アポトーシスでは、ネクローシスとちがって、まず、核の中のDNAの断片化が起こる。ネクローシスは、細胞が息絶え絶えになってやむなく死ぬのであるが、アポローシスでは、細胞はDNAを分解する酵素を使って積極的に自分を殺す。自爆するのである。
  • 細胞の中にはこのような自分を殺す遺伝子が組み込まれている。生きる必要のあるときには、この自殺遺伝子の働きは他の遺伝子の働きによっておさえられている。ちょうど、毒薬をもたされたスパイのように、組織のために自分が消えなくてはならないときには、細胞はいさぎよく死んでいくのである。アポトーシスをさまたげると、その個体は、正常な生命活動をいとなめなくなってしまう。
  • 死もまた生の一部である。「私」は、多くの死を内臓しつつ、六十兆個の細胞の総合として生きているのである。

                 「安らぎの生命科学」(柳澤桂子著、早川書房)より。

生命のストラテジー(3)

「生命のストラテジー」(松原謙一・中村桂子共著、早川書房)より。


 (つづき)生命がこのようなダイナミズムを示すことができるのは、常に再生産されなければならないというストラテジーを採用しているからである。この一見ムダとも見える生命の営みの繰り返し。ムダについても、身近な例から、細胞レベルの現象までふれた。無数の幼生。成功のチャンスのほとんどゼロの精子たち。免疫細胞たちの空しいともいえるほどの莫大な浪費、、、これが、生命の長い歴史において繰り返されてきたのである。生命の歴史そのものが、考えようによっては壮大なムダと見えないことも無い。何よりもわれわれの心を強く捉えるのは、生命を受け継ぎ、伝え、栄え、滅びる、この流れの中に、偶然の入る余地があまりにも多いということである。もし、あの個体でなく、この個体が生き延びていたら、、、もしあのとき、あの環境変化が起こらなかったら、、、。
それなのに、自然は一つ一つの個体を決していいかげんにつくっているわけではない。どれにも同じだけの手間をかけて、同じように丁寧に作り出すのだ。一つ一つは決してムダと位置づけられてはいないのである。



この地球上に38億年ほど前に現れたある存在。それがただの一度も絶えることなく続き、その中から生じてきたこの多様性、この巧みさ。この長い歴史の中に、そしてその間に生まれてきた多くの仲間たちの中に、自分を置いてみよう。さまざまないのちが生まれ、消えて行った中で、決して一つのものだけが生き残ったり、特定のものに収斂することはなかった、、、このような生命の流れの中に、人間を捉えて眺めると、日常とはやや違った景色が見えてきはしないだろうか。自分自身や身近な人に対して持っている、かけがえのない大切なものとして見える人間とはちがう、かといって「赤の他人」という感覚ともちがう、もっと開放された大らかな感覚の中に人間が見えてくるような気がする。このような感覚で人間をみること、そして他の生物たちに、さらには地球全体に目を向けることが、直感ではなく自然科学によって可能になったのである。(おわり)

「生命のストラテジー」(松原謙一・中村桂子共著、早川書房)より。


生命のストラテジー(2)

「生命のストラテジー」(松原謙一・中村桂子共著、早川書房)より。


(つづき)生命のストラテジーの特色は、矛盾対立を組み込んでいることだ。多様だが共通である。安定だが変化する。対立はいたるところでバランスよく保たれている。正確だが、まちがいをするし、いいかげんなところがある。厳密だが、遊びがあり、ゆらぐ。正常と異常とは、区別が判然としない。まさにヤジロべエだ。これらの矛盾対立が、生命においては、われわれが思うほど鋭くて相容れない対立の構図をとっていないところがおもしろい。「きれいはきたない、きたないはきれい」(シェイクスピアマクベス」)――この特徴は、DNA分子そのものの内臓する性質によっているのである。
遺伝子系は、DNAの取り込み、放出、重複や増幅をテコとし、塩基の置換をそれに加味して変化してきた。ありあわせの素材を使って継ぎ足し、建て増し、改造し、一つの均整のとれたものを作り上げてきた。ポップアートのように。われわれの根底の設計図がポップアートとは!しかも、この設計図は、絶え間なく改造されているのだが、不思議なことに、そこには今を生き続けられる多様化を作り出すという以上の設計思想はないようだ。まして最後の完成目標はないらしい。それどころか、改造の結果が思わしくないものまで構わずにどんどん作り出している!



多少具合が悪い遺伝子を持った個体も、集団の中に生き続けられるという生命の寛容さも見てきた。これができるのは、われわれの設計図が正確無比だからなのではなく、むしろ、ゆとりのある柔軟なものだからである。もう少し自分に引きつけて言うなら、いいかげんなのだ。これが生命の流れのしたたかさの秘密であろう。ガッチリと規則を決め、ガンジガラメに、一つの誤りも無くことを運ばせるシステムに対して、このように、過ちも許す寛容さ、適当に対処の手をつくす柔軟さは、われわれをほっとさせる。生命は、賢くてオプティミストだといいたくなる。それに、多少具合あ悪いといっても、それは今、われわれが置かれている環境下での話だ。
しかし、少し長い時間に目を転じれば、状況は決して呑気ではない。個体の、あるいは種の上にふりかかる選択の気まぐれ、過酷さ、、、、生命の歴史に残されている大絶滅の記録は、そのほんの一部を示しているにすぎない。われわれの見ている生物は、みんなそれをかいくぐって続いてきたものばかりである。(つづく)

「生命のストラテジー」(松原謙一・中村桂子共著、早川書房)より。